2023年12月8日 5時00分
あの戦争、先の大戦
開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている――。1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭(きちむら あきら)は学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい(たけだけしい)音とともに、大本営発表(だいほんえいはっぴょう)を伝えるラジオのニュースを耳にした。「町全体が沸き立っているような感じであった」という▼吉村にとっては、それは悲しみにつながる記憶でもあった。中国で戦死していた兄の遺骨が、開戦の2日後、送られてきたからだ。ハワイでの戦果に「狂喜(きょうき)」する近所の目を気にして、家族は雨戸(あまど)を閉めた。母親は発狂せんばかりに激しく泣いたそうだ(『白い道』)▼米英との開戦に踏み切ったとき、日本はすでに中国大陸で泥沼(どろぬま)の戦禍(せんか)に陥っていた。吉村の兄の死も、夥しい(おびただしい)数に上る戦死の一つに過ぎない。「開戦」という言葉には、いま思い浮かべるのとは異なる響きがあったのだろう▼「物心(ぶっしん)ついてから戦争の連続で、私にはそれが日常であり、戦争というものになれきっていた」。吉村はそんな言葉も残している。満州事変、盧溝橋(ろこうきょう)、ノモンハン。一つの戦争でなく、幾多(いくた)の戦争が複合的に重なる時代だったということか▼きょうで、真珠湾(しんじゅわん)攻撃から82年。私たちはいまだに、誰もが納得できるような名前で、あの戦争を呼ぶことができずにいる。大東亜戦争(だいとうあせんそう)か。アジア太平洋戦争か。あるいは8月15日に歴代首相が使ってきた「先の大戦」か▼そもそも、あの戦争とは何だったのだろう。あいまいな呼び名、あいまいな歴史認識に佇む(たたずむ)、この国のいまを思う。