2023年11月24日 5時00分

別人にはなれない

 過去を捨て、別人として生きる。そう決めた「彰子(しょうこ)」は、犯罪を重ねて他人(たにん)の戸籍を乗っ取っていく。31年前に出た宮部みゆき(みやべ みゆき)さんの小説『火車(かしゃ)』は、いま読んでも恐ろしい。彰子は常に同年代で身内のいない女性を狙う(ねらう)。自己破産を知った婚約者に問い詰められ、姿を消す▼際立つのは、他人を利用しつつも1人で逃げ切りを図る彰子の決意の強さだ。本物の自分には、両親の借金など暗い過去がある。だから絶対に戻らないし、戻れない。追う刑事も、「鉄のような存在意志」だと舌を巻く(非常に驚く)▼なぜ、法を犯してまで別人にならなければいけなかったのか。そう問いたくなる事件が先月、明らかになった。実在(じつざい)しない人物の戸籍を作成(さくせい)した疑いで、73歳の女が逮捕された。24歳年下の架空の妹になりすましたという▼本紙の報道によると、妹が戸籍がなかったのでつくってあげたいと裁判所に説明して戸籍を取得(しゅとく)。訪れた運転免許試験場(しけんじょう)の職員が、40代ではないと見破った(みやぶった)。70歳を超えると仕事で不利になり、若くなければ差別を受けるなどと話しているそうだ▼そもそも戸籍は、人が生まれてから死ぬまでの親族関係を公的(こうてき)に証明するものだ。自分が存在する証しに使うものでもあるだろう。たとえ消したい過去でも受け入れて、やり直していくしかない▼冒頭の小説で、彰子は乗っ取った戸籍を「とことん自分のもの」にしようとするが、最後は刑事らに追い詰められる。いくら戸籍をもてあそんでも、別人になることはできない。

火車のあらすじ

休職中の刑事、本間俊介(ほんま しゅんすけ)は遠縁(とおえん)の男性に頼まれて彼の婚約者、関根彰子(せきね しょうこ)の行方を捜すことになった。自らの意思で失踪(しっそう)、しかも徹底的に足取りを消して―なぜ彰子はそこまでして自分の存在を消さねばならなかったのか?いったい彼女は何者なのか?謎を解く鍵は、カード会社の犠牲ともいうべき自己破産者の凄惨(ひさん)な人生に隠されていた。山本周五郎賞(やまもと しゅうごろうしょう)に輝いたミステリー史に残る傑作。