2023年11月10日 5時00分

水晶の夜

 雨の降る夜。若いユダヤ人夫婦がまず気づいたのは、ガラスの割れる音だった。喚き声(わめきごえ)がアパートに響き、大勢の靴音(くつおと)が部屋に近づいてくる――。1938年のきのう、ドイツ全土でユダヤ人への迫害が始まった。商店や教会などが略奪・放火され、道はガラス片(ガラスへン)で覆われた▼「水晶の夜」と呼ばれる惨劇である。ユダヤの青年がドイツ外交官を殺したことへの報復が理由とされた。ナチスは政策として隔離を進め、やがてアウシュビッツなどの強制収容所につながる▼差別と苦難の歴史をユダヤ人は歩んできた。一つひとつが、人類として忘れてはならぬ記憶である。だがいま、異なる民族を壁の中に閉じ込めて、報復の砲弾をその頭上に降らせているのは、果たして誰か▼「パレスチナの人々はジェノサイド(集団殺害)の重大なリスクにさらされている」。国連の専門家グループは先日、イスラエルがガザ地区への侵攻を続けることに「深い不満」を表明した▼残念ながら、いまのところイスラエルは聞く耳を持っていない。軍の侵攻はガザ市中心部まで達した。問題は政府であって、民族や国民がみな支持をしているわけではあるまい。だが暗澹(あんたん)たる気持ちになる。圧倒的な悲劇を経てもなお、負の歴史を繰り返すのか▼林志弦(イムジヒョン)著『犠牲者意識ナショナリズム』から言葉をひく。「ぞっとするようなホロコーストからくむべき教訓は、私たちも犠牲になりかねないということではなく、私たちも加害者になりうるという自覚だ」