2023年11月6日 5時00分
壁と卵と日本外交
その日、評論家の加藤典洋(かとう のりひろ) 氏は少しがっかりし、そして、ちょっとだけ怒っていたそうだ。2010年の秋のこと。不満は村上春樹(むらかみ はるき)氏の発言についてだった。文学者のマイケル・エメリック氏が、加藤氏の著書『村上春樹の世界』の解説に書いている▼村上氏は前年にあの「壁と卵」演説をした。「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」。イスラエル要人のいる場で、パレスチナへの軍事攻撃を暗に批判した▼世界に広く発信された、この崇高(すうこう)なメッセージを、加藤氏は高く評価した。ただ、だからこそ、演説の後、「自分は正直こわかった」と村上氏が本音を吐露(とろ)したと聞き、残念に感じたらしい。「村上ほどの小説家は、そんなことを言ってはいけない」▼理想を語るとはそれほどまでに尊く(とおとく)、重いということなのだろう。あれから13年。きょうもガザでは「卵」が無残に潰され、焼かれ、撃たれている。現下(げんか)の惨状を止めるために、いま私たちは何を語るべきなのか▼上川陽子(うえかわ ようこ)外相の中東訪問で、記者の質問が飛んでいた。イスラエルの侵攻において、国際法は守られていると考えるか。外相は答えた。「確定的な法的評価は控える。一般論として……」▼外相が作家のように語れないのはよく分かる。でも、歯痒い(はがゆい)。外交とは、この国が何を大事にしているのかを示す場でもある。多くの無辜(むこ)の人命が奪われている。もう少し理想を感じさせる言葉はないものか。もう少し、何とかならないか。
- げんげ 1【現化】 神仏がこの世に姿を現すこと。げんか。
- げんか 1【現下】 現在。目下(もつか)。今。「―の社会情勢」