2023年11月9日 5時00分
旧統一教会の会見
買い物上手の男が、知り合いに請われてともに瀬戸物屋へ出向いた。入り用なのは大きな壺(つぼ)なのに、男はなぜか小さいのを3円で買う。2人で辺りをぐるっと巡るとまた店に戻って、やっぱり大きいのと取り換えてくれと番頭に頼む。落語「壺算」である▼値段は倍の6円でよろしく、と男は強気だ。「さっき3円払ったろう。店に返すこの小さい壺が3円。あわせてちょうど6円。じゃ、もらってくぜ」。口車に乗せられているうちに、どつぼにはまっていく番頭の困りっぷりがおかしい▼立て板に水の弁舌といえば、おとといの旧統一教会の会見も、かなりなものだった。なのに、よくよく聞いていると、番頭なみに頭が混乱する。田中富広会長は「心からおわびする」と確かに頭を下げた。しかし、それは「謝罪」ではないという▼さらに驚くのは、被害の内容がはっきりしていないから「被害者」という言葉は安易に使わない、と述べたことだ。いったい誰に何をわびたつもりなのか。これは何のための会見なのか。まったく理解に苦しんだ▼要は、献金問題などの「組織性、悪質性、継続性」を否定して、解散命令の審理を牽制(けんせい)する狙いだろう。問題の原因は信者の「行きすぎ」にあって、組織の体制ではないとも言った▼よどみない語りは頭に入りやすい。でも、うのみにすればどうなるか。熟練したばくち打ちは、思いどおりにサイコロの目を出せたという話を思い出す。そこから生まれた言葉がある。「思う壺」である。