2023年8月28日 5時00分
高史明さんを思う夏
きみの学校の夏休みもそろそろ終わりでしょうか。きょうはセミ時雨(せみしぐれ)のなか、今夏に亡くなった在日朝鮮人の作家、高史明(コサミョン)さんを思い出しています。高さんにはひとり息子がいました。12歳の真史(まさふみ)くん。彼は詩を書いていた。〈ひとり/ただくずれさるのを/まつだけ〉▼ちょっと背伸びした、でも繊細な感じは、きみとそっくりです。〈ぼくだけは/ぜったいにしなない/なぜならば/ぼくは/じぶんじしんだから〉。そして命を絶ってしまった。50年近く前の夏です▼悲しみの中、高さんは詩を集めて『ぼくは12歳』として出版しました。多くの中高生から、彼のつらさがわかると手紙が来ました。寄り添う心の有り難さ(ありがたさ)。息子を理解できなかった悔しさ。二つを抱きしめて高さんは言います。それでも死んではいけない、と▼家を訪ねてきた子に話したそうです。頭が「死にたい」と告げても、手足にも相談しないといけないよ。足の裏をよく洗って、返事が聞こえてくるまで歩いてみるんだ――▼学校の光景が浮かび胸が苦しくなる。そんなことが心の優しいきみにもあるのかも、と思ってこれを書いています。誰かに相談を、と言っても、簡単に出来るなら悩みはしないでしょう。ならば1編の詩を読むのでもいい。作者が時代をこえて、対話の相手になることはあるのです▼高さんは書いています。「淋(さび)しいこころの持主(もちぬし)が、いま一人の淋しいこころの持主と出会うなら、その二人は、もはや淋しい一人ではないのである」