2023年7月14日 5時00分
ミラン・クンデラと裏切り
裏切り(うらぎり)ほど、人間らしい行為もない(There is no human act more than betrayal.)。ミラン・クンデラさんの作品が多くの人を魅了するのも、そこに常に生身の言葉と、背信のにおいがあるからではないか。チェコスロバキア出身の著名な作家の訃報(ふほう)に接して、そんなことを考えた▼その名が注目されたのは1967年の小説『冗談』だった。東西冷戦のさなか、民主化運動「プラハの春」の前夜のことだ。将来有望な若者が恋人に送った手紙の一言によって、炭鉱(たんこう)での労働を強いられる話である▼なぜ私信の内容が党当局の知るところになったのか。「謝ろうなんて、ちっとも思っていないわ」。冷たく言い放つ恋人の小さな裏切りが、ひとりの男の人生を大きく狂わせていく。共感を呼んだのは、歴史に翻弄(ほんろう)される多くの人々の姿が重なったからだろう▼家族や仲間への不義(ふぎ)、自らの意思や感情に対する不実。作家の筆致(ひっち)は厳しく、でも、やさしい。映画化された『存在の耐えられない軽さ』では、裏切りは「魅惑(みわく)」であり、「美しい」とさえ記している▼実生活においても、裏切り者との汚名に苦しんだ。フランスへの亡命を「逃げた」と責められ、母国ではひどく嫌われた。本人は否定したが、過去に秘密警察に協力していたとの報道も出た。深い葛藤(かっとう)があったに違いない▼「前には理解できる嘘(うそ)があって、その後ろには理解できない真実が透けてみえる」。文学とは何か。小説とは何なのか。読む人を悩ませる印象的な言葉をいくつも残して、ひとりの作家が逝った(いった)。94歳。
- ミラン・クンデラ
生い立ち
モラヴィアのブルノ生まれ。父親のルドヴィーク(fr)は著名なピアニストで、レオシュ・ヤナーチェクに師事し、後にヤナーチェク音楽院(英語版)院長を務めた経歴(けいれき)をもつ。そのためクンデラ自身も幼少時(ようしょうじ)から音楽教育を受け、小説の文体や構成に音楽的素養(そよう)が反映されている。プラハの音楽芸術大学 (AMU) 卒業。1963年発表の短編集(たんぺんしゅう)『微笑を誘う愛の物語』で本格的な創作活動に入る。1967年に発表した共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説(ちょうへんしょうせつ)『冗談』でチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化の中で言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになった。そして1968年の「プラハの春」では、改革への支持を表明したことによって、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入の後、次第に創作活動の場を失い、著作は発禁処分(はっきんしょぶん)となった。1975年、レンヌ第二大学の客員教授に招聘(しょうへい)されたためフランスに出国。1979年にチェコスロバキア国籍を剥奪(はくだつ)され、1981年にフランス市民権を取得。このころから、母語のチェコ語ではなくフランス語で執筆活動を行う。1984年発表の『存在の耐えられない軽さ』が世界的なベストセラーになり、フィリップ・カウフマンによって映画化もされた。
小説執筆のかたわら、文学評論を手がけており、小説を「世界を相対的に捉えよう(つかまえよう)とする、ヨーロッパが独自に生み出した芸術の形式」だと考え、セルバンテスをその最大の先駆者(せんくしゃ)に位置づけている。また現代世界の運命と現実を捉えた小説家としてカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ハシェクらを高く評価し、中央ヨーロッパに現れたこれらの作家たちの系譜を継ぐものとして自らの作家活動を行っている。
祖国チェコが1989年のビロード革命によって民主化して以降、クンデラも1990年代に何度か帰国したが公(おおやけ)の場に姿を見せることはなく、国籍も復活されないままの状態が続いた。2018年11月10日には、アンドレイ・バビシュ首相がクンデラの国籍復活を提案し、2019年12月3日、チェコ外務省はクンデラのチェコ国籍回復を発表した。同省報道官などによると、11月28日にパリのクンデラに宛てて駐仏チェコ大使から関係書類が届けられ、クンデラと妻はこれを受理したという。
2023年7月11日、パリで死去。94歳没。