2023年7月9日 5時00分
顔のない遭難者
海外の紛争地で取材していたころ、よく罪悪感を覚えた。誤爆で建物の下敷きになった子。銃撃戦に巻き込まれた農民。遺族らの話から、貴重な人生の軌跡を知った。だが、「犠牲者たち」とくくった途端、遠い世界の話になってしまう▼地中海を船で渡る移民や難民が今年、深刻な状況だ。国連の調べでは、今月初めまでの死者・行方不明者は2千人近い。最悪の7年前を上回るほどのペースだ。中東やアフリカの一部で不安定化した政情などが背景にある▼危険な船旅(ふなたび)で命を落とした人々は、名もないまま収容先の国で埋葬(まいそう)される。その身元を特定して死者の尊厳を守り、遺族らに伝える試みがあると『顔のない遭難者たち』で知った。著者のクリスティーナ・カッターネオさんは、同定作業(どうていさぎょう、identity)を続けるイタリアの法医学者だ▼遺族にとってつらいのはあきらめきれない「あいまいな喪失」だという。遺体の特徴や所持品、DNAなどを細かく記録し、蓄積(ちくせき)する。遺族らが持参する写真や歯の治療記録、毛髪(もうはつ)などと一致すれば特定できる▼あるとき、遺体のTシャツに縫い付けられた小袋(こぶくろ)がアフリカの「故郷の土」だと知った。著者も昔、祖父母(そふぼ)の家で摘んだ花をお守りのように財布に入れたことを思い出す。それ以来、自分と彼らの間にあった距離が消えたと書いている▼欧州で移民・難民問題が分断の火種(ひだね)となって久しい。上陸を阻む動きすらあるなか、死者に人格を取り戻させようと懸命な人々がいることに救われる思いがする。