2025年2月22日 5時00分
お米のしあわせ
人はどんな時に、しあわせを感じるのだろう。そんな問いに心が揺れることがあると、小説「泥の河」の一節を思い出す。作家の宮本輝(みやもと てる)さんがじんわりと深い筆致(ひっち)で描いたのは、戦後間もない1950年代、大阪の場末(ばすえ)に生きる小さき者たちの姿だった▼「冬の寒い時でもなあ、お米だけは温(ぬく)いねん」。悲しく、貧しい家の少女がつぶやく。「お米がいっぱい詰まっている米櫃(こめびつ)に、手ェ入れて温もってる時が、いちばんしあわせや。……うちのお母ちゃん、そない言うてたわ」▼この国にはかつて、そんな時代が確かにあった。米のごはんをお腹(なか)いっぱいに食べることは、このうえなくありがたいことだった。それがいまやどうだろう。豊かになって、当然のように米が気軽に手に入る(いる)ことは素晴らしい。でも、それは当たり前の光景ではないのだろう▼政府がようやく備蓄米(びちくこめ)を放出する。昨秋、頑として「新米が出回れば価格は落ち着く」としていたのに、一転して「このカードしかない」とは驚いた。前年から7割も高騰した値段は本当に下がるのか▼昭和の時代を思えば、私たちが食べる米の量も、農家(のうか)や田んぼも大きく減った。一方で、減反政策(げんたんせいさく)が生んだ(うんだ)歪み(ゆがみ)は広がる。そもそも米の値段は危ういバランスのうえにあったらしい▼悩ましい問題である。農家も物価高に苦しんでいる。とにかく安ければいいなどとは言わない。ただ、投機で稼ぐ人もいると聞けば、腹も立つ。一膳(いちぜん)の白い米に手を合わせる。ありがたく、箸をとる。