2025年3月7日 5時00分
待望の雨
柳田国男(やなぎだ くにお)の『遠野物語拾遺(とおのものがたりしゅうい)』に、昔の火事の話がある。集落で炎が広がると、どこからともなく小さな子どもが現れた。目覚ましい(めざましい)働きで火を鎮める(しずめる)と、あっという間に姿をくらませてしまった。いったい、あれはどこの子だろう▼見つけた足跡をたどっていくと、行き着いたのは仏壇(ぶつだん)の前。中には小さな阿弥陀(あみだ)像があって、全身泥まみれになって大汗(おおあせ)をかいていたそうな。じつに不思議な火伏せ(ひぶせ)の伝承である▼神さま、仏さまと、多くの人が祈る(いのる)ような気持ちだったろう。もうこれ以上、被害が広がるのをくい止めてほしい――。悲痛な思いが少しは天に通じたに違いない。山林火災が続く岩手県大船渡市(おおふなとし)に、待望(たいぼう)の雨が降った。おとといだけで26・5ミリに達した▼「『雨が降った』と言ってうれし涙を流したのは、生まれて初めてだ」と、地元の2市1町で発行される地域紙、東海新報がコラムで書いていた。愛する風景に幾筋もの白煙が棚引く(たなびく)。それを目の当たりにしての、かけ値なしの思いだろう▼一帯(いちたい)には、全国から数多くの消防隊が応援のために派遣されている。18リットルもの水を背負い、山をのぼって炎に迫る。タンクが空になれば、いったん戻り、補給し、また挑む(いどむ)。遠野の伝承さながらに泥まみれで汗だくの活動だろう。まったく頭が下がるばかりだ▼きのうの夕方までに山は鎮火に至らなかったが、恵みの雨と人海戦術が功を奏して(こうをそうした)、火の勢いはだいぶ弱まった。あともう一押し(ひとおし)だろう。願いよ、いま一度、天に届け(とどけ)。