2025年3月9日 5時00分

東京大空襲から80年

 東京で過ごした子どもの頃、親類や近所の大人たちから空襲の体験談をよく聞いた。半世紀近く前になるが、今でも覚えているのは「逃げている時に機上の米兵と目が合った」という話だ。そんなに近くを飛ぶのかと驚き、想像するだけで恐ろしかった▼児童文学作家の松谷みよ子による証言集『現代民話考 銃後』には、似た体験がいくつも記録されている。浅草の男性は東京大空襲の日、屋根すれすれに飛ぶB29の「アメリカ兵の顔が見えた」という。焼夷(しょうい)弾で全身に大やけどを負い、家族7人を失った▼機銃掃射から必死に逃げ回ったという女性が見た光景も記されている。電柱の陰で足を止めたとき、低空飛行する戦闘機に「若い米兵の笑い顔と投げキッスが見えました」。銃撃する側の不気味な行動から、底知れぬ恐怖が伝わってくる▼松谷は、空襲によって「銃後という言葉はがらがらと崩れ」、市民は「ただただ一方的に戦火を浴びた」と書いた。空から無差別に爆撃する空襲は、地上で暮らす民間人を戦場へ引きずり込んだ▼約10万人の命が奪われたとされる東京大空襲から、あすで80年になる。上空では誰を殺しているか意識しにくいと言われる空襲で、確かに交わった視線があった。その証言に触れると、戦争の非情さ、悲惨さがいや増す▼空襲は第1次世界大戦から本格的に始まり、遠隔操縦のドローンで攻撃する新たな次元に入った。空からは人間の視線が消えても、その下には丸腰で震える生身の市民がいる。