§2024-08-17
-
栄典
-
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章(くんよんとう きょくじつ‐しょう)
-
1908年(明治41年)4月30日 - 勲一等旭日大綬章(くんいっとう きょくじつだいじゅしょう)
-
1913年(大正2年)11月22日 - 旭日桐花大綬章(くんいっとうきょくじつとうかだいじゅしょう)
-
側近
-
中根 長十郎(なかね ちょうじゅうろう)は、幕末の一橋家家老。徳川慶喜の側用人。諱は正剛。尊攘派に暗殺された。- 1863年に暗殺
-
平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日〈文政5年10月7日〉- 1864年7月19日〈元治元年6月16日〉)は、幕末期日本の武士(一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜の小姓を務めた。諱は方中。攘夷派に暗殺された。同じく幕臣の平岡準蔵とは異なる。 - 1864年に暗殺
-
原 市之進(はら いちのしん)は、幕末期の水戸藩士、一橋徳川家家臣。徳川慶喜の側近。藤田東湖の従弟に当たる。攘夷派の幕臣に暗殺された。1867年に暗殺
-
西 周(にし あまね、(文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は、日本の啓蒙思想家、西洋哲学者[1]。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。西 周助とも[2]。
-
土岐朝義(とき よし)
-
名前
幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)。元服後、初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて松平昭致(あきむね)と名乗っていた。
寛保元年12月1日に元服した際、当時の将軍・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い(へんきをたまう)、慶喜と改名した。旧臣であった渋沢栄一が編じた『徳川慶喜公伝』では、この時点ではよしのぶと読まれていたとしている。
将軍就任から3ヶ月たった慶応3年2月21日には、幕府が「慶喜」の読みは「よしひさ」であるという布告を行っている。この読みの変更について三浦直人は、かつて足利義教が「義宣(よしのぶ)」と名乗っていた際に、「世忍ぶ」に通じて不快であるため改名したという例と同様に、「よしのぶ」の音が「世忍ぶ」に通じていたためではないかとしている 。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている他、明治時代になってもよしひさという読みは一定程度使用されている。
しかし、その後は「よしのぶ」の読みが定着していった。明治・大正頃には学校でも「よしのぶ」の読みで教えられていたという回想がある。昭和期の国史大辞典においても「とくがわ よしのぶ」の読みがふられており、1998年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」でも「よしのぶ」と読まれている。
また、けいきという愛称も広く知られている。慶喜が将軍に就位したころのプロイセン王国公使マックス・フォン・ブラントは、その頃は反対派が慶喜を「けいき」と読んでいたとし、維新後には旧旗本が侮蔑の意味で「けいき」と呼んでいた記録もある。一方、慶喜本人は「けいき」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)に当てた電報にも自身を「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。『朝日新聞』1917年2月13日号朝刊4面では、学習院での授業の際に教師が「よしのぶ」と読むと、生徒であった慶喜の孫が「いゝえうちの御祖父さまの名はケイキです」と抗議したという記録があり、慶喜の孫である榊原喜佐子((さかきばら きさこ)の著書でも「けいき」のルビが振られている[124]。また明治30年代には皇太子嘉仁親王(大正天皇)と親しくなり、「殿下」「けいきさん」と呼び合っていたという[128]。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」としているが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことや福澤諭吉の『福翁自伝』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所がある[129]。現在でも静岡県などでは慶喜について好意的に言及する際に、「けいきさん」「けいき様」の呼び方が用いられることがある。
また、明治になって風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した節用辞書『永代日用新選明治節用無尽蔵では、「のりよし」という訓みが記されている。
- 幼年時代
武芸や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
「手裏剣術(しゅりけんじゅつ)」とは、手裏剣(しゅりけん)を使った武道や技術を指します。手裏剣は、主に忍者(にんじゃ)が使用した武器で、小さな刃物で飛ばすことで相手に攻撃するために用いられました。
寝相(ねぞう)が悪く、躾(しつけ)に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃(かみそりのは)を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた。このことは、側近であった渋沢栄一の残す『昔夢会筆記』にも記述がある。慶応2年、29歳で将軍に就任したのちも、緊張感を保つためにこの習慣を続けていたという。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾(さいしょう)2人とYの字になるよう3人で同衾(どうきん)していたという逸話も伝えられる。また、利き手である右腕を守れるよう、右肩を下にして寝ていたともいう。
- 幼少期の慶喜とされる写真
幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
- 一橋家当主として
明治以降の慶喜はざっくばらん(frank)な性格で知られたが、江戸時代の頃から格式を軽んじることがある人物だったという。榎本武揚(えのもと‐たけあき)によれば当時将軍後見職だった慶喜に面会した際、それが最初の「御目通り(おめどおり)」だったので「定めて式法など」が「厳格の事ならん」と思っていたところ、慶喜は一人で対応し「応接の平易にして言語の親しき」だったので、榎本は「ただただ喫驚(きっきょう)の外はなかりき(外(ほか)には何もなかった)」という感想をもったという。さらにその後食事を共にした際も慶喜は自分で「酒瓶(しゅびん、さかびん)を執り、飯櫃(めしびつ)を側に置いて、手づから飯を盛」ったため驚いたという。佐久間象山(さくま‐しょうざん)も慶喜と面会した際、慶喜が「もそと(もう少し)進み候へ、もそと進み候へ」と命じたために気が付けば象山は慶喜と3尺(1メートル弱)の距離まで近づいていたという。どれも厳格な身分制社会の江戸時代においては考えられないことだった。
病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いた。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。 将軍として 歴代徳川将軍で唯一、将軍として江戸城に入らなかった人物である。すでに将軍ではなくなっていた鳥羽伏見の戦いの敗戦後に初めて江戸城に入り、その後の謹慎までの短い時間を慌ただしく過ごしただけである[57]。 英邁さで知られ、実父斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。 鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマ『徳川慶喜』の放送などもあり、再評価する動きもある。 慶応の改革の一環として建築された横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が在日米軍の横須賀海軍施設ドックとして利用されている。また同時期に幕府陸軍の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から山岡鉄舟・大鳥圭介・津田真道など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されている。慶応の改革はその後の動乱の中で頓挫したものの日本の近代化に少なからず貢献した。 坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた、と指摘する研究者もいる[135]。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは坂崎紫瀾が著した容堂伝『鯨海酔候』や渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。 戊辰戦争 鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から激しく非難された。この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。 新政府から朝敵に指定されるとすぐさま寛永寺に謹慎したことなどから、天皇や朝廷を重んじていたと考えられる(尊王思想である水戸学や、母親が皇族出身であることなどが多分に影響していると思われる)。 明治維新後
弓を引く慶喜。弓術は凝った趣味の一つで、77歳の春まで毎日弓を引き続けていたという[136]。
慶喜の墓 実業家の渋沢栄一は、一橋家の当主だった頃に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜の肉声を聞くことができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」「長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ってゆるせない」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。 明治31年(1898年)皇居に参内し、明治天皇に謁見した慶喜は「浮き世のことはしかたない」と言ったので、天皇は胸のつかえをおろした[137]。 幕末が遠い過去のことになり、客観的な評価が増えてきた明治20年代頃から慶喜の再評価論が高まった。慶喜が徹底して恭順、謹慎し、江戸無血開城などを断行したことで、幕府軍と政府軍の全面内戦は回避され、比較的円滑に政権を移譲することができた。だからこそ近代日本の独立性は保たれ、明治維新へ大いに貢献したと考えられたためである[138]。 渋沢栄一、萩野由之は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土となることを免れ、又フランスの援助を拒絶したため、外国が介入しなかったとし、明治維新最大の功績者の一人であったと述べた。特に渋沢は、安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度を高く評価している[139][140]。 鳥谷部春汀は、第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人であると記している[141]。 勝海舟は、慶喜が皇居参内の翌日にわざわざ訪ねて礼を言ったため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ち無闇に旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにしますと言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけあると感心した[142]。 菊池謙二郎は『水戸学論藪』において「ああ他人をして慶喜公の地位に在らしめたらどうであったろう。(略)一意皇室を思い国家を憂えられた其の至誠は、何人が企及し得る所であろうか」と評価している[143]。 政治家では伊藤博文に共感を感じるところが多かったという。渋沢栄一によれば、有栖川宮邸での饗宴の席上で慶喜と話をした伊藤も慶喜のことを「悧巧な人物だ。大層感心した」と褒めていたという。明治42年(1909年)10月に伊藤がハルビン駅で安重根に暗殺され、その遺体が11月1日に新橋駅へ戻ってきた際には出迎えに立っている。その翌日には「御棺拝」のために霊南坂の官邸に赴き、4日の葬儀にも出席している[144]。 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである[121]。