§2024-08-12
- 13代 豊凞(とよてる)
生没年:文化12(1815)年~嘉永元(1848)年 享年34歳 父:豊資(12代) 母:美芳院(豊資側室・大賀氏女) 通称:直寿・政太郎・晟太郎 官位:従四位下対馬守→土佐守・侍従 家督:天保14(1843)年 29歳(豊資の隠居により家督相続) 正室:智鏡院(島津斉興女‐薩摩藩‐) 法号:養徳院殿後鏡視倹大居士
12代豊資の長男として土佐に生まれる。天保14(1843)年父の跡を継いで13代藩主となった。9代豊雍が行った政策「天明改革」を模範として、「天保改革」を実行。勘定方馬渕嘉平(まぶちかへい)など、新進気鋭の集団に革新策を進めさせたが、山内家の分家や家臣たちはそれを喜ばず、「おこぜ組」と呼んで異端視し、12代豊資に訴えて失脚させた。諸方からの圧力にも屈せず、自らも倹約を進め、華美を当然とする風潮を刷新し、分家の経費削減を目指した。その他にも「医学館」や「武芸所」を設置し、領内を巡見するなど、積極的に改革を進めた。幼い時から学問や武芸に励み、その才能は傑出したものだったといわれている。
- 14代 豊惇(とよあつ)
生没年:文政7(1824)年~嘉永元(1848)年 享年25歳(幕府へは嘉永2年死去と届け) 父:豊資(12代) 母:美芳院(豊資側室・大賀氏女) 通称:兵部・式部 官位:なし 家督:嘉永元(1848)年 25歳(豊熈の死去により家督相続) 隠居:嘉永元(1848)年 享年25歳(実はすでに死去) 正室:なし(三条実万女‐公家‐と婚約するも婚儀前に死去) 法号:譲恭院殿篤信自省大居士
12代豊資の四男として土佐に生まれ、弘化元(1844)年に分家東邸山内家の家督を相続。嘉永元(1848)年に兄の13代豊凞が、跡継ぎがいないまま危篤となったことをうけて末期養子(まつごようし)となり、同年9月6日に14代藩主となる。 ところが、豊惇は藩主となってわずか12日後に急死する。藩は豊惇の死を伏せて、幕府へは病気のため隠居と届け、分家の豊信を養子とすることを画策、その実現を待って死去を届け出た。
- 15代 豊信(とよしげ)
生没年:文政10(1827)年~明治5(1872)年 享年46歳 父:豊著(南邸初代) 母:梅林院(豊著側室・平石氏女) 通称:輝衛・兵庫助 隠居後は容堂 官位:従四位下土佐守・侍従→従四位上左近衛少将 維新後に正二位・権中納言 ※明治5年(1872)贈従一位 家督:嘉永元(1848)年 22歳(豊惇の隠居(実は死去)により家督相続) 隠居:安政6(1859)年 33歳 正室:禎祥院(三条実万養女・烏丸光政女‐公家‐) 法号:神道につき法号なし 分家南邸山内家の当主だったが、嘉永元(1848)年に14代豊惇が急死したため、15代藩主となった。藩内では吉田東洋を仕置役に抜擢、後に「安政改革」と呼ばれる財政・海防・教育改革を進めた。将軍の跡継ぎ問題では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推したが、大老井伊直弼と対立して安政6(1859)年に隠居謹慎となり、隠居後は「容堂」と号した。謹慎が解かれた後は、幕府と朝廷の融和を目指し、慶応3(1867)年に、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白、実行に導いた。同年末に朝廷で行われた小御所会議で、徳川家を擁護したが認められなかった。豪気な行動をとる反面、大変神経質だったといわれている。
- 16代 豊範(とよのり)
生没年:弘化3(1846)年~明治19(1886)年 享年41歳 父:豊資(12代) 母:院号不詳(豊資側室・沢田氏女) 通称:熊五郎・鹿次郎 官位:従四位下・土佐守・侍従→従四位上・左近衛少将 *維新後に従三位 死去の直前に従二位 家督:安政6(1859)年 14歳(豊信の隠居により家督相続) 正室:蓮光院(毛利敬親女‐萩藩‐)・栄姫(後妻・上杉斉憲女‐米沢藩‐) 法号:神道につき法号なし
12代豊資の十一男で、15代豊信の養子となり、安政6(1859)年に藩主となった。 明治元(1868)年の戊辰戦争では、藩兵を東山道から東北へ派遣し、薩長とともに官軍の主力部隊となった。 明治2(1869)年に薩摩・長州・肥前藩主とともに版籍奉還(はんせきほうかん)を申し出て、豊範は高知藩知事となる。知事として藩政改革に着手するが、同4年には廃藩置県が決まり、豊範は藩知事を免ぜられ上京した。その後は政治から退き、鉄道や銀行事業へ投資をしたり、自らも植林などの事業をおこす一方、「海南学校」を創立して人材育成にも力を注いだ。明治17(1884)年に華族令が発布され、侯爵となった。